2013年9月27日 星期五

善峰寺的『遊龍之松』~西國三十三札所巡禮


善峯寺は西国三十三ヵ所観音霊場の第二十番札所です。
西元1029年源算上人開基:

善峯寺を開基した源算上人は因幡(鳥取県)に生まれ、9歳の正暦2年(991)、比叡山の恵心僧都源信(えしんそうず げんしん)に徒弟入り、13歳に剃髪した。師と仰ぐ源信の思想を受け、浄土は西山にあると比叡山の西、つまり西山のこの地に長元2年(1029)47歳の時、法華院と号する小堂を建て国の鎮護を念じた。5年後の長元7年9月、後鳥羽天皇から「良峯寺」の号を賜った。

有沒有人發現我所照的寺院寺頂都有紫光?

                                                              姿態優雅的多寶塔

多宝塔の前にある樹齢六百年の五葉松は 「遊龍の松」の名で呼ばれ、国の天然記念物に指定されています。

「遊龍の松(天然記念物)」は、桂昌院お手植えの五葉松。昭和7年(1932)天然記念物に指定されている。遊龍の松は高さ2メートル余りだが、左右それぞれ20メートル以上も枝を伸ばし、その姿が龍に似ていることから、この名前が付けられた。

桂昌院:平安中期江戶時代德川五代將軍綱吉的生母
善峰寺寺內一株樹齡六百年的『遊龍之松』,枝葉繁茂蔓延,似蟠龍之姿而得名.

一開始便上傳我拍攝這整條龍的影片,但沒有成功,或許晚些在傳傳看?







因何能孕育出日本第一松?
答案應該是:
とにかく、寺の境内からの眺めが素晴らしい。京都盆地を一望できて、眼下には 桂川・宇治川・木津川が合流して淀川になるダイ...

大家只要看到這種扮相的雕像,應該就是弘海大師了





2013年9月23日 星期一

天竺渡来的觀音菩薩~西國三十三札所巡禮

西國觀音靈場第六番
壺阪山 (つぼさかさん)  
南法華寺 (みなみほっけじ)    
通称 壺阪寺

〔宗派〕 真言宗
〔開基〕 行基上人 (べんきしょうにん)
〔創建〕 大宝3年 (703)
〔御本尊〕 十一面千手千眼観世音菩薩
〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

行基菩薩何許人也?
在“扶桑略記”裡有云:

聖武天皇十七年乙酉正月己卯
二十一日,以行基菩薩為大僧正,并賜四百人出家僧侶。大僧正職,此時始矣。菩薩未經僧位,不受於具足戒,尚是沙彌也。一云,年十五歲出家入道,廿四歲受具足戒。俗姓高志氏,和泉國大鳥郡人也。初出胎時,胞衣裹纏。父母忌之,閣樹岐上。經宿見之,出胞能言,收而養之。出家入道,住藥師寺,周遊天下,廣化群迷。道俗慕化,追從者動數千。所行之處,聞和尚來,巷無居人,爭來禮拜。諸要害處,造橋築陂,見聞老少,咸集加功,不日而成。所止之房,多植菓樹,建立道場,四十九所。古老云:「菩薩好行度。」敕捕其身,禁固枳林。雖藏內而身尚遊外,仍散禁。又菩薩少年之時,隣子村童相共讚嘆佛法。余牧兒等捨牛馬而從者,殆垂數百。若牛馬之主有用之時,令使尋呼。男女老少來覓者,聞其讚嘆之聲,不問牛馬,泣而忘歸。菩薩自上高處,呼彼馬喚此牛,應聲自來,其主牽去。并讀瑜伽唯識論等了,知奧義。又行諸國,歸於故鄉。里人大小會集池邊,捕魚喫之。菩薩過於其處,年少放蕩者相戲,以魚膾薦於菩薩。菩薩食,須臾吐出,其膾變為小魚。見者驚恐。

初出胎時,胞衣裹纏。父母忌之,閣樹岐上。經宿見之,出胞能言,收而養之。

虛雲老和尚與憨山大師,亦皆”初出胎時,胞衣裹纏。“
難道虛雲老和尚與憨山大師,乃行基菩薩的前世今生?

聖武天皇廿一年(天平感寶元)己丑
二月二日丁酉,行基菩薩於菅原寺東南院,右脇而臥,身心安穏,如入禪定遷化。春秋八十歲。最後遺誠云:「弟子光信法師為世眼,我之所造四十九院,悉付屬汝。」又諷弟子等云:「口虎破身,舌劔斷命。汝等能可慎口業,塞口可令如鼻。」


 〔略縁起〕 大宝三年(703)、元興寺の弁基上人がこの山で修行中、愛用の水晶の壺中に観世音菩薩を感得。 壺を坂の上の庵に納め、観音像を刻んで祀ったのが始まりという。  養老元年(717)、元正天皇により八角円堂が建てられ、南法華寺の正式寺号を賜った。 平安時代には清和天皇、藤原道長ら貴顕の参詣が相次ぎ、霊験の山寺として、また真言密教の一大道場として繁栄した。 『枕草子』には「寺は壺阪。笠置。法輪」と名を挙げられており、その隆盛ぶりがうかがえる。
 礼堂に続く本堂八角円堂におわすご本尊は、十一面千手観世音菩薩。 胸の前に手を合わせ、法力を湛えたお姿で、衆生救済への力強い意地を感じさせる。 殊に眼病に霊験あらたかな観音様である。
 明治の初め、盲目の夫沢市とその妻お里の夫婦愛を描いた浄瑠璃『壺阪霊験記』は、壺阪寺に伝わる観音霊験譚を下敷きに書かれたもの。 こうした物語が伝えられるほど、壺阪寺の観音様は目の観音様として広く信仰を集めてきた。
 また、昭和三十九年より始まったインドでのハンセン病患者救済活動のご縁からご招来された、世界最大級の天竺渡来大観音石像、大涅槃石像、大釈迦如来石像等、巨大石像群が境内にシルクロードの香を漂わせる。

 一進寺院就見此壯觀的石像,這在所有觀音靈場是絕無僅有的!讓人不可思議的是佛像是“天竺渡来”的!不是大陸進口的!(不同於台灣,匠氣十足)

昭和39年よりインドでのハンセン病患者救済活動を行い、そのご縁でインドから招来された世界最大級の天竺渡来大観音石像、大涅槃石像、大釈迦如来石像等の巨大石仏が境内に安置されている。

關於行基菩薩有一段很精彩,必須記上一筆!
『文殊為利眾生,赴日本國。爰菩薩感念戀慕,為遂本懷,進來此朝。』」

聖武天皇十八年六月丙戌

 或記云,同年七月,天竺婆羅門僧菩薩始來本朝。天皇建東大寺,為開講供養。敕書曰:「屈請行基大德,右奉為大佛供養講師,屈請如件。辭曰:『沙門行基謹言。不堪奉仕大佛會講師事,右從南天竺國可來觀自在菩薩,願相待可被請用講師。』者。天皇感念,止事待來之間,南天竺迦毗羅衛國【私云,迦毗羅衛國,是非南天竺。如何。】婆羅門僧菩薩,為謁文殊師利菩薩,自天竺至大唐五臺山。時老翁逢路,告云:『文殊為利眾生,赴日本國。爰菩薩感念戀慕,為遂本懷,進來此朝。』」其時行基菩薩奏曰:「天竺上人已來,欲行迎者。」奉敕,率治部玄蕃雅樂三司,向難波濱奏音樂。於是行基在百僧列,以閼伽一具燒香盛花,泛海上。香花自然指西而去。俄頃,遙望西方,小舟來向。近而見,舟前閼伽具等,次第不亂,小舟著岸。一云,先見海上,有千万率都波。人見為奇,盛花燒香供率都波之前。有一梵僧上濱,與行基菩薩攜手相見微咲。先以梵語敬禮,次菩薩詠和歌云:「迦毗羅衛に爾,昔契甲斐有,文殊之御顏,會見つる哉。」行基菩薩云:「靈山,釋迦之御前,契りてし,真如不朽せ,相見つるかも 。」又菅原伏見鄉三年睡眠人,謂盲聾,由菩薩唱起儛,謂之十天樂也。菩薩入洛詣東大寺,天皇感,欲賜食卦戶,敕令巡禮諸寺,至大安寺東僧坊南端小子坊留住。後尋處,給官額,曰菩薩僧正院。


天竺渡来大観音石像、大涅槃石像、大釈迦如来石像,正俯視著,整片關西大地,懾受這片土地的眾生!


 この石像は全長約8m、重さ約30トンといわれており、平成11年(1999年)4月にここに安置されたようである。
十一面千手千眼観世音菩薩
此行光是親訪這些石雕佛像,便是無價之旅!

2013年9月20日 星期五

與子共結風月同天之緣~西國三十三札所巡禮



諸位有幸,梅庵今在此與子共結風月同天之緣
話從聖德太子的前世今生開始:

一日師指岩下謂眾曰:“吾第一生曾於此坐禪,賊斷吾首。”眾共掘地,獲枯骨,果無首,今名一生岩者是也。至西南隅,指一磐石曰:“吾第二生亦曾居此,此下吾前世骸骨。”眾舉石驗之,果得紅白骨,聯若鉤鎖,即於其地壘石埋骨,上築一塔,以報宿修之恩,今名二生塔者是也。又至一草木叢生地,指曰:“此乃古寺址也。吾第三生曾托居其處。”使人掘地,果有僧用器皿及堂宇之基。其地高爽,居岳之中,即於此築台,為眾說般若經,今名三生藏者是也。寺乏水供眾,師以杖卓崖,有虎跑地,泉水湧出(即今虎跑泉)。

師者乃天台宗三祖南嶽慧思大師也
此慧思大師的三生因緣

聖德太子
三十六歲
,丁卯,夏五月,太子奏日:「臣之先身,修行漢土.所持之經,今在衡山.望遣使乎.將來比校所誤之本.」天皇大奇.左之右之依奏:「誰合使乎?」太子遍相百官之人,奏曰:「大禮-小野臣-妹子,合相.」
 秋七月,妹子等遣於隋.太子命妹子曰:「隋赤縣之南,江南道中有衡州.州中有衡山,是南岳也.山中有般若臺.登自南溪下,入滋松中三四許里,門鄰谷口.吾者同法皆既遷化,唯有三軀,汝宜以此法服稱吾名而贈之.復吾昔身,住其臺時,所持法華經,複為一卷.乞受將來.」妹子到彼,問彼土人.遂屆衡山.如太子命,入自南溪下.比到門側,有 一沙彌.在門之內,唱云:「念禪法師使人到來.」有一老僧,策杖而出.又有二老僧,相續而出.相顧含歡.妹子三拜.言語不通,書地通意.各贈法服.老僧書地曰:「念禪法師,於彼何號?」妹子答曰:「我本朝和國也.在東海中.相去三年行矣.今有聖德太子,無念禪法師.崇尊佛道,流通妙義,自說諸經,兼製義疏.承其令旨,取昔身所持複法華經一卷,餘無異事.」老僧等大歡,命沙彌取之.須臾取經,納一漆俠篋而來.謂妹子曰:「是經并篋,念禪法師之所持也.念禪在此,惰倦讀經,睡而燒經.有一點處.」僧等授經竟,指南峰上一石塔云:「彼念禪遷化納骨之塔也.于今三十六歲矣.」妹子受辭,拜而別去.三老僧各裹物納一篋.答曰:「贈之.」并有封書篋.明年,還來進太子.太子大悅,披篋而看.有舍利三枚、名香等.書辭人不得識之,太子讀竟,垂淚投火.不識其故,侍臣驚奇之.

我們借由不同時空經典連結對照一下:

又至一草木叢生地,指曰:“此乃古寺址也。吾第三生曾托居其處。”使人掘地,果有僧用器皿及堂宇之基。其地高爽,居岳之中,即於此築台,為眾說般若經,今名三生藏者是也。

太子命妹子曰:「隋赤縣之南,江南道中有衡州.州中有衡山,是南岳也.山中有般若臺.登自南溪下,入滋松中三四許里,門鄰谷口.吾者同法皆既遷化,唯有三軀,汝宜以此法服稱吾名而贈之.復吾昔身,住其臺時,所持法華經,複為一卷.乞受將來.」

三十八歲
,己巳,夏四月八日,太子始製勝鬘經疏.
 此月,百濟僧-道欣等十人,流著肥後國.聞太子風,情願留住.仍安置元興寺.太子召入於斑鳩宮,問之,以過去宿身之事.十僧辭謝.垂淚.密語等儕曰:「上人等何無天眼乎.此太子是衡山般若臺東房第一念禪比丘也.吾等與盧嶽道人,時時拜謁,聞其說法華一乘妙義者也.」太子聞之,謂左右曰:「是實也.」
 秋九月,小野臣-妹子,到自隋.啟太子曰:「臣屆衡山般若豪.先逢三僧,二口遷化,一口猶存.謂臣曰:『初年沙彌誤取他僧所持之經,授子竟.而去年秋時,子國太子,元念禪法師,駕青龍車,從五百人,到自東方,履空而來.探舊房裏,取一卷經,凌虛而去.仍留此法華經五卷義疏.名-上宮疏.』」太子微咲而默.



鑑真和尚東渡日本的因緣:

《唐大和上東征傳》言:
榮睿、普照師至大明寺,頂禮大和上足下,具述本意曰:“佛法東流,至日本國,雖有其法,而無傳法人。日本國昔有聖德太子曰:'二百年後,聖教興於日本。'今鐘此運,願和上東遊興化。”大和上答曰:“昔聞南嶽思禪師遷化之後,託生倭國王子,興隆佛法,濟度眾生。又聞日本國長屋王崇敬佛法,造千袈裟,來施此國大德眾僧。其袈裟緣上繡著四句曰:'山川異域,風月同天。寄諸佛子,共結來緣。 '以此思量。誠是佛法興隆有緣之國也。”

最澄法系的圓仁,承和十四年(847)自唐歸國,遞呈上表文言:

伏尋天台宗傳本朝之元始,南嶽思大禪師後身聖德王子,以不世之德降生此國,遣使於西鄰而取經,自製章疏而講贊。黎庶於茲,始聞佛法。其後唐鑑真等遠慕聖化,將天台法門而來朝。

《扶桑略記》卷三、敏達天皇六年(577)六月二十二日:
鑑真和尚云:聞南嶽思禪師遷化之後,託生倭國王子,興隆佛法,濟度眾生。倭國王子者,聖德太子也。 

慧思、聖德太子、鑑真
山川異域,風月同天。寄諸佛子,共結來緣。

2013年9月16日 星期一

西國最艱難參拜的寺院~西國三十三札所巡禮

觀音正寺~西國最艱難參拜的寺院
我是扎扎實實地領教了,這一西國最艱難參拜的寺院!天呀!應該讓我早二十年來吧!1200級階梯,如果讓我早知道的話,不知道還有沒有勇氣上來!

途中想到來日本之前,問一位高僧要不要去日本?
回我說:老了!走不動了!

走不動?去日本走不動?
諸位,回首當下我可是無法做到幡然一笑的!竟然早知道我這趟是來巡禮的?

西国三十三箇所観音霊場 第三十二番札所 繖山(きぬがさ山)観音正寺


観音正寺の本堂は平成5年(1993年)に失火で焼失した。交通の不便な山中にある寺院のため、消火活動もままならず、重要文化財に指定されていた本尊千手観音立像も焼失した。現在ある木造入母屋造の本堂は平成16年(2004年)に再建されたものである。新たに造立された本尊千手観音坐像は仏師松本明慶の作。



進本堂之前,黑缽內有檀香粉末,用手取一撮,兩手搓一搓,然後擦在身上.





這裡告訴你你已經走了三之二了!

一路上都是這種石階,就只這1200級的試煉嗎?不!西國走到這裡正是32所,加上我參拜過秩父34所一共66所,所有參道都沒這裡最特別一種東西,什麼東西?就是兇猛的蚊子!請大家想像一下,爬1200級,你的雙手雙腳可以供養多少隻蚊子飽餐?這時突然覺得兇猛的蚊子是菩薩變現的!



2013年9月14日 星期六

行者與蕎麥麵~秩父三十四札所巡禮


最早出現蕎麥的文獻

元正天皇養老六年戊子,詔曰:
「朕以庸虛,紹承鴻業,剋己自勉,未達天心.是以,今夏無雨,苗稼不登.宜令天下國司,勸課百姓,種樹晚禾、蕎麥及大小麥,藏置儲積,以備年荒.」

江戶時代的寬永年間(1624~1642),朝鮮僧侶將把麵粉加入簥麥粉中以增加其延展性的方法(稱為-割り粉)傳入奈良的東大寺,成為蕎麥麵食的濫觴-(蕎麦切り-sobakiri)。

出家人上山修行時,必須斷絕五穀(米、麥、豆、小米、稗),而被視為雜穀的蕎麥不在其中,於是修行者都在腰間綁著裝著蕎麥粉的小袋子,用深山溪流的水,和著吃維持體力。

蕎麥是僧侶們在修行時唯一可食用的穀類。

「蕎」在日本的古語裡是「角」「稜角」之意,乃蕎麥的穗,正是菱角型,故日本古稱「蕎麥」。正確念法應為そばむぎ,現簡略成そば。





這家そば是在秩父巡禮時,偶然遇見的,這一盤盤蕎麥麵是在交響樂聲中誕生的!




手打そば
蕎麥麵好吃條件有三個條件:現磨、現打、現煮

吃完蕎麥麵,請記得喝一碗免費的「蕎麥麵湯」


蕎麥麵的蛋白質比白米和麵粉多,有豐富的氨基酸、維他命B群、礦物質,以及強化血管、降低血壓作用的芸香(艸甘),由於養分多為水溶性,所以蕎麥麵店會附帶一壺「蕎麥麵湯」,剛好把流失的養分補過來。